第一話 -ある雨の日-

 ケイは旅人になりたいと思っていました。しかし、お父さんのサミュエルさんは軍隊所属の大変真面目な人でしたから、ケイには将来、同じ軍人として故郷オリブ国の為に尽くしてくれるよう望んでいました。毎早朝、ペンヴァニア連山の訓練場へケイを連れ出しては、日課のトレーニングメニューをこなさせるのでした。ケイにとって、昼間の学校へ行っている間と夕方と夜だけは、誰と変わらぬ普通の男の子としての時間を過ごしていましたし、自分の中に描く本当の夢に心躍らせていました。

 夕方、学校の帰り道。ケイはいつも通り海辺へ寄り道をし、浜辺に腰を下ろして、鞄からお気に入りの本を取り出し読みふけろうとました。本を開くと、栞にしていた革紐とその先端についた木彫りのチョウチョが顔をのぞかせました。履きつぶした靴のヒモと、拾ったケヤキの枝でケイが手作りしたものでした。

 ケイのお母さんは大変手先が器用で、草花や生き物が大好きな人したから、ケイには将来、多くのものに触れ学び、広い視野と心を持った子に育ってほしいと願っていました。ですからサミュエルさんとの訓練がない日、お母さんはよくケイをこの海辺や林に連れ出しました。浜辺にはどんなものが流れ着いているのか、それはどこからきたのか。貝殻に空いた綺麗な丸は何か、鳥はどんな場所を選び、どんな材料で巣作るのか。虫はどんな草木を好み集まるのか。シロツメグザの花冠はどのようにして編むのか。

“よく見ていてごらん”これはお母さんの口癖でした。鳥だから、草花だから、虫だからと、決めつけてはいけない。みんなそれぞれが、それぞれの可能性を大事に生きているものです。そして“世界は、見えてるもの一つではない”お母さんが残した最後の言葉でしたが、これがケイの中に今でも大切に響いていました。

 本の続きを読み始めて間もなく、突然ひんやりとした風が通り過ぎました。ケイは気にしませんでしたが、上からポツリと降ってきたものが本をにじませたので、空を見上げました。黒い雨雲が広がるのを見ると、ケイは鞄に本をしまい、急いで林の中に駆けて行きました。海辺の天気は変わりやすい、これは通り雨だがどしゃぶりになるに違いないと、ケイには分かっていました。

 林の中を走っていくと、大きなケヤキの樹が姿を現しました。ケイは靴を脱ぐと、鞄の肩掛けに靴ヒモをしっかりと結びつけました。手の平にペッとつばをはくと、伸びる木の枝に手を伸ばしました。すると、木の根元にうずくまる人影が目に入り、ケイは思わず「わっ」と声をあげました。急にそんな声が聞こえたものですから、人影もびくっとしてこちらを振り向きました。

 「あれ?お前は確か…」ケイが言いました。

 「あれ?君は確か…」振り向いた人影も言いました。

 見ると、同じクラスの男の子でした。同じクラスと言いましても、オリブ国の学校は小さいものでしたから、クラスは一つしかありません。ケイとこの男の子のように年齢が3歳くらい離れていても、同じ教室で過ごすクラスメイトだったのです。午前中は低学年と高学年が共に学び、午後は高学年だけが残って授業をしていくというのがオリブの学校でした。

 「そこで何してる?」ケイが尋ねました。驚いたせいか男の子はなかなか口を開こうとしません。雨足がだんだん強くなってきたのを感じると、ケイは「雨宿りだろ?」と雨の音に負けない声で尋ねました。男の子が小さく頷くのを確認すると、ケイは掴んでいた枝から手を離し、男の子の手を引っ張って「木登りできるか?」と尋ねました。男の子はケヤキを見上げると、その高さに不安の表情を浮かべ、また小さく首を横に振りました。

 「夏なら良いが秋口だ。びしょ濡れでも今の太陽は乾かしちゃくれないぞ」

 ケイはそう言うと背中につかまるよう促しました。男の子には最初ケイの言うことが信じられませんでしたが、雨が強くなるにつれ高学年のクラスメイトが焦っていると分かると、咄嗟にケイの背中に手を伸ばしました。ケイはその手を取って自分の首へ巻き付かせると「いいか下は見るな、お前が今すべきことは、頑張ってコアラになってることだ」それだけ言うと、慣れた手つきでどんどん樹を登っていきました。どんどん地面が遠くなっていきます。

 途中、雨粒や濡れた木の枝が頬をかすめました。ケイはお構いなしでしたが、男の子の方は、ぎゅっと目をつぶると背中に顔を埋めて歯を食いしばりました。樹を登るのに、ケイが急に宙ぶらりんになったり、勢いよく枝から枝へ飛び移るわけですから、いつか振り落とされるのではないかと恐怖を感じずにはいられなかったのです。こんなことでは、いつこの手を離してしまうかもしれないし、どんどん樹のてっぺんまで来ているのではないかと想像すると、男の子には怖くてたまりませんでした。

 しばらくすると、ケイが態勢を整えたのか、急にしがみつきやすくなりました。そればかりか、雨粒や濡れた小枝をどこにも感じません。おまけに温かな感じがしました。「着いたよ、コアラ終わり」ケイの声が聞こえましたので、男の子はゆっくり目を開けました。

 「クラスの誰にも言うなよ。俺の秘密の場所だったんだから」ケイはクギをさすように言いました。

 そこはケヤキの洞でした。とても大きく広い洞でしたから、子ども二人が入ったところで、寝そべって大の字になれる余裕さえありました。何処かゴミ捨て場で拾ってきたのか、ボロボロなカーペットが敷いてあり、壊れた小さなキャビネットが置いてありました。ケイは引き出しの一つに手をかけると、タオルを2枚取り出し、綺麗な方を男の子へくれてやりました。タオルはちょっと埃っぽい匂いがありましたが、ケヤキの良い香りもしました。ケイがタオルで体をふ拭いているのを見て、男の子も頭から顔から腕から足首まで、体中を拭きました。ケイがその場に腰を下ろすと、男の子も腰を下ろしました。

 「通り雨だろうからさ、すぐやむよ」

 「…同じクラスだよね?」

 不愛想でしたが、顔立ちが整い、喧嘩も強く、運動も勉強もそれなりに出来るということで、クラスでは割と人気のある高学年のケイを知らないわけではありませんでした。どこか冷めたような表情のケイに、話しかければ怒られるのではないかと緊張しましたが、男の子はゆっくりと口を開きました。

 「そうだっけ?」ケイは知らないフリをして言いました。 

 「しゃべることなんか絶対ないと思ってた。君がクラスの人気者なのはよく知ってる」

​ 「人気者だと低学年とは話せないと?」

 「違う。オレみたいなのが話せる身分じゃないと思ってたんだ」

 ケイは鼻で笑うと、馬鹿馬鹿しいと持っていたタオルを軽く男の子に投げつけ、その場へ仰向けに寝そべりました。しばらくの沈黙の間、二人は雨音と小枝が揺れる音に耳を澄ませました。

 「教科書の丸読み、よく当てられるくせに、同じ単語でいっつもつまづくよな?今日だって」

 「…」

 「ボールのキャッチも上手く出来ねぇし、飛んでったボール探しに行ったかと思えば、いつの間にか一緒に消えてるし」

 「…」

 男の子はすっかり口をつぐんでしまいました。秘密基地へ連れてきて、タオルまで貸してくれた優しい人気者かと思えば、学校で口々に言われることを、彼も同じように口走るからです。クラスの人気者と話せると思って、ほんの少し嬉しくなって口を開いた自分のことを、心底バカだと思いました。早く雨がやまないか、飛び降りてでもこんなところから一目散に逃げ出してやりたいと、頬の裏側を強く噛みしめました。明日学校へ行っても、絶対に視線を合わせるものかと、そう思っていました。

 ケイは男の子がふてくされたと分かると、鞄から本を取り出し、今度はうつ伏せになって静かに本を読み出しました。それを見た男の子は少しホッとしました。次は何を言われるか、言葉の矢じりにどう耐えようか考えていたからです。雨はなかなかやみません。その内、ケイが何の本を読んでいるのか気になりだしたので、男の子はほんの少し身を乗り出しました。ケイはイタズラにニヤッとすると、「馬の本だ」と言いました。すると男の子は大きく身を乗り出しました。それを見たケイが突然笑い出すので、驚きました。

 「馬が好きっていうのは本当なんだな!」

 男の子は騙されたと分かると、カッとなって本のページを破ってやろうと手を伸ばしました。しかしケイがそれを阻止したものですから、代わりに本に挟んであった栞を取り上げました。ケイが困れば何でも良いと思ったのでした。栞を見せびらかすと「謝るまで返してやらないぞ」とケイをキッと睨みつけました。しかしケイは特別焦りもせず「ふ~ん」とだけ言って、また本の続きを読み始めました。男の子は「こいつがどうなってもいいのか!」と挑発しますが、ケイは知らん顔です。男の子は栞をズボンのポケットにしまうと、また雨音に耳を澄ませました。するとケイが本から目を離さずに「馬は馬でも、鉄の馬な」と言いました。男の子は眉間にシワを寄せました。

 「バイクのことだ」ケイが言いました。「バイクに乗った旅人の話が、この本に書いてある」そうして本の表紙を男の子に見せてやりました。表紙にはその旅人のものであろうバイクの写真がありました。著者の名をクレメンズと言い、この本は著者の旅日誌だと言います。家族で旅人を続けるクレメンズは、幼い頃から世界中を走り回り、最近になってようやく旅の愛馬(バイク)を手に入れたということです。年齢が10も変わらないクレメンズの話が、ケイは大好きでしたし、同時に憧れを頂いていました。

 「多くのことを見て、聞いて、知って、感じて、そうして自分は大人になっていきたい」そう話すケイはなんだかとても嬉しそうに、けれどどこか寂しそうに見えました。

 「お前は?低学年」

 「え…」

 急にケイに問われ、男の子は戸惑いました。自分が将来どんな大人になりたいかなんて分からなかったのです。馬が大好きなのは確かでした。ですから大人になっても馬と一緒に暮らしていきたいという想いはありましたが、学校の先生や家族といった大人達の「良い学校、良い仕事」といった“エリートな口癖”が、男の子にはとても不愉快でした。みんなの言う「良い」に辿り着くには、目の前のケイのようになんでも出来ないと遠い道のりだと思っておりましたし、「自分がどんな大人になっていきたいか」と大人の間で交わされ教え込まれる「目指すべき“良い”」が、自分の中ですれ違っていたのです。

 「君ならなんでも出来るし、良い先生にも良い職人にだってきっとなれるよ。友達だって沢山いるんだから」迷った男の子は、問われた自分の将来についてではなく、そんなことを口走っておりました。ケイは本を閉じると、再び冷めたような表情で男の子を見ました。そして「お前に友達って呼べる奴は何人いる?」と問いました。

 「牧場友達で同い年のカーラと妹のローラ、村人で3個上のノーマンに1つ上のオリヴィア、花梨とレモンのハチミツジュースを作ってくれるサッチャーおばさんもお友達だし…それから…」男の子は指折り言いました。するとケイは「ほらな?」と、少し皮肉に指さしました。

 

 「“どんくせぇ”で有名なお前にはそれだけの仲間がいる。ところがお前らが“人気者”だっていう俺に本当の友達は一人もいない。仲良くしてれば何かあるだろう、で寄ってくる連中は沢山いるが。目に見えてる光景が全てと思うな!

 

 見た目だけで人を判断してくれるなと、嫌みではなく、本気で怒鳴られたと分かった男の子は目を見張りました。ケイは雨足が小雨になってきたの見ると、今度は「一人で降りれる?」と問いました。男の子は洞から下をのぞき込むと、首を横に振る代わりに「ん~…っとねぇ…」と唸りました。ケイはため息をつくと「わけねぇか」とその場に立ち上がり、キャビネットからロープを取り出し、太い枝にしっかり結び付けました。ロープの先端を外へ放り出すと、地面の上でヘビのようにぐにゃりとなりました。ケイが何を言わずとも、男の子にはどういう意味か理解出来ましたので、恐る恐るロープを手に取りました。ケイは表情を変えずに「頑張って降りれたら、さっきお前が言ったことは許してやる」とだけ言いました。男の子は、ロープを引っ張り、枝が折れないかどうか確認すると、慎重に降りていきました。時々足元が滑り、ロープにしがみついている時間が長かったので、地上に辿り着く頃には、手がすっかり真っ赤になっていました。ケイは、男の子が地上に降り立ったことを確認すると、ロープを手繰り寄せていきました。

 するとどこからともなく男の子を呼ぶ声が聞こえてきました。村のノーマンとオリヴィアが、サッチャーおばさんと一緒に、家に帰らないという男の子を探しに、林へやってきたのでした。「アキー!」その声を聞いたケイは「帰れ、呼んでるぞ」とだけ言うと、もう洞から顔を出すことはありませんでした。アキは何か言いかけましたが、そのまま声のする方へと走って行きました。

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